日本の紙幣が、2024年度(令和6年度)上半期から、20年ぶりに改刷されます。新紙幣の「顔」となるのは、10,000円札が「渋沢栄一」、5,000円札が「津田梅子」(つだうめこ)、1,000円札が「北里柴三郎」(きたざとしばさぶろう)です。なぜ今、流通している紙幣を一新する必要があり、この3人が新紙幣の顔に選ばれたのでしょうか。新紙幣への疑問と新紙幣の顔となる3人について、詳しくご紹介します。
日本では、約20年ごとに紙幣が改刷されているのをご存知でしょうか。せっかく浸透して流通しているのに、なぜ変えるの?と疑問に思う方がいるかもしれませんが、一番の理由は「偽造防止」のためです。
当たり前のことですが、偽札を製造することは犯罪です。
定期的に紙幣を改刷し、最新の印刷技術を施すことによって、偽造を困難とさせ、偽札づくりという犯罪を防止しているのです。なお、紙幣には必ず「肖像」(しょうぞう:人物の顔、姿)が描かれることも、偽造防止に効果があると言われています。
それは、私達人間が「顔」の認識能力に長けているから。現在、スマートフォンなどで、人間の顔の特徴を自動的に識別・抽出するデジタル技術「顔認識システム」が採用されていますが、この原理の根本は、顔の特徴を捉え照合するという能力。私達は見慣れた顔と比較して、少しでも違和感があると気付くことができるのです。つまり、紙幣に顔が描かれると、偽造を見抜きやすいと言えます。
なお、2024年度(令和6年度)に改刷される新紙幣には、「透かし」、「ホログラム」、「超細密画線」、「マイクロ文字」、「特殊発光インキ」、「深凹版印刷」、「潜像模様」、「パールインキ」、「識別マーク」など、最先端の印刷技術が施される予定です。
財務省は、「紙幣は、老若男女すべての人が使用するものであることから、学校の教科書にも登場するなど、一般に良く知られており、また、偽造防止の目的から、なるべく精密な人物像の写真・絵画を手に入れられる人物であることなどを基準に採用しています」と述べています。
どうして、2024年度(令和6年度)の改刷で、10,000円札の肖像として「渋沢栄一」が選ばれたのかを考察してみましょう。
渋沢栄一は、1840年(天保11年)に武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくにはんざわぐんちあらいじまむら:現在の埼玉県深谷市血洗島)の裕福な農家の長男として生まれました。
幼い頃から家業である養蚕と藍玉(あいだま:藍の葉から作る染料を突き固めた物)の製造・販売を手伝い、また父から学問の手ほどきを受けたと言います。そして7歳になると、「論語」や「日本外史」などを学ぶため従兄の「尾高惇忠」(おだかあつただ)のもとへ通うようになりました。
渋沢栄一が生を受けた当時には、日本はまだいわゆる鎖国状態にありましたが、1853年(嘉永6年)の「ペリー来航」をきっかけとして幕府が開国。日本人は外国と向き合うことになったのです。それは、渋沢栄一も例外ではありませんでした。
青年となって江戸へ遊学した渋沢栄一は「尊王攘夷思想」(天皇を敬い、外敵を排斥しようとする思想)の影響を受け、従兄の尾高惇忠や「渋沢喜作」(しぶさわきさく)らと共に、「高崎城」(群馬県高崎市)の乗っ取りと「横浜外国人商館」の焼き討ちを計画します。
しかし、尾高惇忠の弟で従兄の「尾高長七郎」(おだかちょうしちろう)の反対により計画を断念。一族に累が及ぶことを懸念した渋沢栄一は京都へ向かい、ここで江戸遊学以来親交のあった一橋家の家臣「平岡円四郎」(ひらおかえんしろう)の口利きにより、「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの徳川慶喜)に仕えることとなるのです。
平岡円四郎から、攘夷を論ずるより先に世界を知るべきだと諭された渋沢栄一は、気持ちも新たに一橋家で力を尽くしました。すると、さらなる活躍のチャンスに恵まれます。
1866年(慶応2年)、主君の徳川慶喜が15代将軍となると、翌年、徳川慶喜の異母弟である「徳川昭武」(とくがわあきたけ)の随員として「パリ万国博覧会」(パリ万博)へ行くことになったのです。
ヨーロッパではパリ万博を視察したのち、各国の都市を訪問し、西洋諸国の先進的な科学技術やインフラ、金融・紙幣制度などの経済活動について詳しく知ることができました。渋沢栄一は、日本も近代化に後れを取ってはならないと感じます。
渋沢栄一がヨーロッパへ渡っている間に、日本では徳川慶喜が政権を天皇へ返す大政奉還が行われました。
1868年(明治元年)、徳川昭武と共に帰国した渋沢栄一は謹慎中の徳川慶喜に会うため静岡へ赴き、その後静岡にて、フランスで学んだ株式会社制度を取り入れた「商法会所」を設立。
この商法会所は、物産販売を担う商社と、商品を担保として融資を行う銀行業務をかねた日本初の株式会社となりました。
商法会所は順調に業績を伸ばします。そんな渋沢栄一の手腕を見込んで、のちに総理大臣となる「大隈重信」(おおくましげのぶ)が明治新政府で働くよう説得。1871年(明治4年)、大蔵省(現在の財務省と金融庁)の官吏に登用され、1872年(明治5年)に紙幣寮の初代紙幣頭(しへいのかみ)となりました。
しかし、思うように力を発揮できなかったことから翌年退官し、民間の実業家としての道を歩むことを決意したのです。
渋沢栄一の実業家としての理念は、少年時代に学んだ論語を基軸としていました。「論語」とは、儒教の経典で、始祖「孔子」の言行録。
「営利のみを求めるのではなく、社会の役に立つことを心掛ける」というこの精神は「道徳経済合一説」と言い、1916年(大正5年)に刊行された渋沢栄一の著書「論語と算盤」(ろんごとそろばん)にも記されています。
渋沢栄一は自ら設立を指導した「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)の監査役となり、全国の国立銀行に対して支援・指導を行った他、株式会社組織による新興企業の育成に力を注ぎ、生涯で約500社もの企業の立ち上げに関与しました。
さらに、「日本赤十字社」の設立にかかわるなど、生涯でおよそ600件もの社会公益事業や教育機関を支援。また民間外交にも貢献しています。
このような公益事業や慈善活動にも「そろばん勘定」、つまり経済性は不可欠であると渋沢栄一は考えていました。それは利益の追求ではなく、長く持続させるためには経済性を重視し、計画的に運営しなければならないと言うことです。この理念のおかげで、多くの組織が現在も人々のために活動を続けています。
このように、渋沢栄一は、数多くの企業の設立を後押ししたことから「日本資本主義の父」と呼ばれました。渋沢栄一がつくった企業の数はおよそ500社と言われ、その多くは現在も日本経済をリードする大企業へと成長。さらに渋沢栄一は、約600件もの社会公益事業に携わり、慈善活動にも貢献したのです。
もし、渋沢栄一がいなかったとしたら、日本の資本主義は欧米諸国よりもずっと立ち遅れていたかもしれません。そう思わせるほど日本へ多大な貢献をしたにもかかわらず、渋沢栄一が自分の名を企業名に冠することはありませんでした。
私利私欲に走ることなく日本の資本主義を推進した渋沢栄一は、まさしくお札の顔としてふさわしい人物と言えるでしょう。
なお、1963年(昭和38年)発行の1,000円札の最終候補となりながら伊藤博文に先を越された理由のひとつに、髭(ひげ)の有無があると言われています。緻密に描き込まれた髭は、偽造防止の観点から有効とみなされたため、お札の肖像画には髭をたくわえた男性像が多く採用されたのです。
しかし、現在では偽造防止の技術が進んだため、髭のない男性や女性の肖像画をお札(日本銀行券)に使用するようになっています。
明治時代、国内ではなく海外で、渋沢栄一の肖像が紙幣に使用されていたことが分かりました。これは、どういうことなのでしょうか。
現在の「大韓民国」(韓国)と「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)は、元々は「朝鮮王朝」という名前のひとつの国でした。しかし、中国、モンゴル、日本、ロシアという強国に囲まれ、侵略に悩まされ続けていたのです。
1897年(明治30年)、清(現在の中国)に支配されていた朝鮮王朝は、清からの離脱を示すため「大韓帝国」へと名称変更。しかし、これにより、日本とロシアが大韓帝国の支配権を争い、1904年(明治37年)、「日露戦争」を開始しました。この結果、日本が勝利し、大韓帝国の支配権は日本であることが決定。
1905年(明治38年)の「ポーツマス条約」でも、ロシア、アメリカ、イギリスが大韓帝国の支配権は日本にあることを認め、1910年(明治43年)、「韓国併合ニ関スル条約」が調印され、大韓帝国は日本の植民地となったのです。
日本は大韓帝国を保護国として、朝鮮統監府を開設し、外交権を剥奪。大韓帝国の通貨「葉銭」、「白銅貨」を回収して、日本の通貨「第一銀行券」を通用させ、植民地化を進めました。
一方、渋沢栄一は、1873年(明治6年)に、日本で最初の銀行「第一国立銀行」を三井組、小野組と共に設立。1896年(明治29年)に普通銀行「第一銀行」と改称し、日本のみならず上海、香港、大韓帝国など海外に進出しました。このとき、大韓帝国で発行された第一銀行券が、当時頭取に就任していた渋沢栄一を肖像とした紙幣だったのです。渋沢栄一肖像の紙幣は、1円、5円、10円の3種類がありました。
なお、第一銀行は、1909年(明治42年)に韓国銀行 (1911年[明治44年]朝鮮銀行と改称)が設立されるまで、中央銀行的役割を果したのです。
しかし、1945年(昭和20年)、「第二次世界大戦」における日本の敗戦により、大韓帝国の植民地支配は終了。1948年(昭和23年)、北緯38度線を境に、北に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、南に大韓民国(韓国)が成立しました。1950年(昭和25年)には、この2国間で「朝鮮戦争」が起こり、1953年(昭和28年)に休戦が成立しましたが、現在も決着は付いていません。
東京都北区の「北区飛鳥山博物館」内に開館された「大河ドラマ館」には、渋沢栄一が「新10,000円札の顔」になることを記念した体験コーナーがあります。
それは、誰でも新10,000円札の顔になれる「なりきり10,000円札」。個別ブースで自分の顔を撮影して合成し、QRコードをスマートフォンなどで読み取ることで、撮影データのダウンロードができるのです。料金は無料。なお、撮影データは有料で「飛鳥山おみやげ館」にて写真に印刷することもできます。
新5,000円札の肖像画肖像として選ばれた「津田梅子」(つだうめこ)は、「津田塾大学」(東京都小平市)の創立者であり、日本初の女子留学生です。
「ヘレン・ケラー」や「ナイチンゲール」とも親交を深め、女子高等教育に生涯を捧げました。6歳という若さで海外に留学した津田梅子の生涯を振り返りましょう。
津田梅子は、1864年(元治元年)に、江戸の牛込で生まれます。父は、明治時代前期の西洋農学者「津田仙」(つだせん)。
父の津田仙は、下総佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の藩士出身で、藩主「堀田備中守正睦」(ほったびっちゅうのかみまさよし)が「蘭癖」(らんぺき)とあだ名が付くほどの開明派であったことから、津田仙はオランダ語と英語を習得。1861年(文久元年)には、幕府外国奉行の通訳に採用されます。
そういった父の影響が大きかったのか、1871年(明治4年)に明治政府が不平等条約の改正を目指して欧米視察に派遣した「岩倉使節団」と共に、津田梅子は渡米します。北海道開拓使が募集した日本最初の女子留学生5人のうちのひとりでした。当時6歳で、女子留学生のなかでも最年少だったのです。
津田梅子は、アメリカではワシントンDC近郊のジョージタウンに住む日本弁務使館(のちの公使館)書記官の「チャールズ・ランマン」の家に預けられます。そののち11年間の長きに亘ってアメリカ生活を送るのです。
このランマン夫妻は、高い教養を持つと共に非常にあたたかな人柄で、津田梅子とランマン夫人は実の母娘のように仲が良かったものの、ランマン夫人をママと呼ぶことはなく、ミセス・ランマンとして通しました。幼くして渡米した津田梅子の心のなかには、常に実の母の面影があったのだろうと言われています。
アメリカの初等・中等教育を受けた津田梅子は、1882年(明治15年)に帰国。帰国後は、「伊藤博文」の勧めで新設された「華族女学校」(のちに学習院[東京都豊島区]へ併合)で英語教師として働きますが、上流階級の女子限定の教育方針に失望してしまいます。アメリカと違う日本の現状に、逆のカルチャーショックを受け、1889年(明治22年)、津田梅子は再びアメリカ留学へと旅立つのです。
アメリカの「ブリンマー大学」で生物学を学んだ津田梅子は、1892年(明治25年)に帰国。1894年(明治27年)には、カエルの卵の発生について共同研究で出した論文がイギリスの学術雑誌に発表されるなど、元祖「リケジョ」(理系女子)としても活躍します。
1898年(明治31年)には、アメリカのデンバーで開催された「万国婦人連合大会」に日本代表として参加し、日本における女子教育の必要性を堂々と語りました。そののち、いよいよ日本の新しい女子教育の道を開くべく、女子専門の私塾の準備に入ります。そして1900年(明治33年)、「女子英学塾」を創立し、自ら塾長となりました。津田梅子、37歳のときです。
実は、この女子英学塾は、政府や財界からの支援を求めずスタートした私塾で、最初の入学者はわずか10人でした。
「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」を目指した女子英学塾は、のちに津田塾大学となり、日本を代表する女子大学へと成長。時代を支える女性達を輩出しています。
津田梅子は生涯独身を貫き、1929年(昭和4年)、享年66でこの世を去りました。
明治時代から大正時代にかけて、教育者として女子教育の道を切り開いた津田梅子。特に英語を通して国際的な教養と広い視野を持つ女性を育てることに全力で取り組みました。
新紙幣の顔として選ばれた3名には共通する点も多くありますが、とりわけ国際的な感覚を備えていることは特筆すべき特徴と言えるでしょう。
お札に採用された津田梅子の肖像も渋沢栄一、北里柴三郎と同じく品格があり、凛とした佇まいに目を惹かれます。しかし、津田梅子の肖像のみ、もととなった写真とは左右の向きが逆になっているのです。
お札の肖像画は、新たに人の手によって描かれるため、写真をそのまま印刷するのではありませんが、この向きの変更は、お札の肖像画は内側を向いているのが慣例となっているため、それに合わせたのではないかと言われています。
新1,000円札に選ばれた「北里柴三郎」(きたざとしばさぶろう)は、近代医学の礎を築いた人物として知られています。
すでに紙幣の肖像画に使われた「野口英世」と比べると、一般的な知名度は低くなりますが、ペスト菌を発見し、破傷風の治療法を開発したことなどで、「日本の細菌学の父」とも呼ばれ、世界の医学界では非常に著名。
そんな北里柴三郎ですが、実はもともと「医者と坊主にだけはなりたくない」と考えていたとのことですから驚きです。
北里柴三郎は、1853年(嘉永6年)、肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県阿蘇小国町北里)で、代々庄屋を務める家に生まれました。ペリー来航のわずか半年前のことです。
母が豊後国森藩の藩士の娘であったことから、その影響を強く受け、少年時代は武士になることを夢見て育ち、熊本藩の藩校「時習館」(じしゅうかん)に入学。しかし、1870年(明治3年)に廃校となると、侍から軍人へ目指す道を変え、大阪にできた兵学寮(陸海軍の士官学校の前身)への入学を希望します。しかし、これに父母が大反対。仕方なく、「熊本医学校」(現在の熊本大学医学部:熊本市中央区)へ入学し、医学を学ぶこととなりました。
前述したように、医者と坊主にだけはなりたくないという気持ちですから、とりあえず語学を身に付け、そのあとに兵学を学ぼうと考えます。そのためオランダ語は懸命に勉強し、ずば抜けて良い成績を残しましたが、医学の方はさっぱりだったのです。
そんな北里柴三郎に転機が訪れます。オランダ人医師「マンスフェルト」との出会いです。熊本医学校に新たに赴任してきたマンスフェルトは、オランダ語だけができる北里柴三郎に大きな関心を持ち「なぜオランダ語だけに熱心なのか?」と尋ねます。これに対し「これからの文明開化を見据えて学んでいる」と答えた北里柴三郎。元来、正直者であった北里柴三郎の当時の偽らざる思いでした。
そんな北里柴三郎にマンスフェルトは、「ヨーロッパでは、ペスト[黒死病]という細菌が伝染する病気で何千万人もの人が亡くなっている。今日、不治の病と言われる病気のなかに細菌が原因の種類があり、治療のできるものがある。君はそうした前人未到の新発見をしなさい。」と説いたのです。マンスフェルトは北里柴三郎の好奇心旺盛な性格と、やるならとことん取り組む姿勢を見抜いていたのでしょう。
その気になった北里柴三郎は、1874年(明治7年)、「東京医学校」(現在の東京大学医学部:東京都文京区)に入学し、予防医学を生涯の仕事にすることを決意します。そして卒業後、内務省衛生局に入局した北里柴三郎は、1886年(明治19年)から6年間、ドイツに留学。病原微生物学研究の第一人者「ローベルト・コッホ」に師事します。
留学中の1889年(明治22年)には、破傷風菌の純粋培養に成功。さらにその毒素に対する免疫抗体を発見した北里柴三郎は、それを応用して血清療法を確立し、世界的な研究者として頭角を現すことになりました。
北里柴三郎は帰国後の1892年(明治25年)、のちに国立となる「私立伝染病研究所」を設立。1893年(明治26年)には日本最初の結核専門病院も開設し、伝染病予防と細菌学の研究に取り組みます。そして1894年(明治27年)、ペストが香港で蔓延したことから原因調査のため現地へ赴き、ペスト菌を発見するのです。
1914年(大正3年)、「北里研究所」を創立。現在の「北里大学」(東京都港区)はこの系譜から生まれています。さらに1917年(大正6年)には「慶應義塾大学医学科」(東京都新宿区)を創設するなど、北里柴三郎は、1931年(昭和6年)に脳溢血(のういっけつ)によりその生涯を閉じるまで、感染症の撲滅と科学の進展に心血を注ぎました。
お札の顔に選ばれる人物は、それぞれの分野で抜きん出た業績を残したばかりでなく、その業績が広く国民に知られていることも重要です。
さらに、緻密な写真が残されており、それは日本の紙幣として申し分のない品格を持つ肖像でなければなりません。
日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一に対して、感染症医学の発展に一方ならぬ貢献をした北里柴三郎は、まさしく「近代日本医学の父」と呼ばれるにふさわしい人物です。北里柴三郎の発見や功績なくしては、現代の日本人が受けられる医療も十分でなかった可能性は否めません。
そしてお札に使用される北里柴三郎の肖像は、貫録を備えている一方、渋沢栄一同様、上品な親しみやすさをも感じさせてくれます。財務省が表明した「毎日のように手に取り、目にする紙幣の肖像としてふさわしい」という理由にも納得できるのではないでしょうか。
新たな肖像画や偽造防止の最新技術が注目を集める新紙幣は、いつから使えるのでしょうか?
財務省と日本銀行(日銀)は、新紙幣の発行開始日を2024年(令和6年)7月3日と決定しました。日銀の計画では、3種類の新紙幣について、2024年(令和6年)3月末までに45億3,000万枚を備蓄。その後も需要に対応しながら、順次必要な枚数を印刷するとしています。
では、新紙幣はどうすれば入手できるのでしょうか?新紙幣は日銀から各金融機関へ配布されるため、消費者は発行開始日より、各金融機関の窓口やATMからの引き出しなどで入手することが可能です。新紙幣を確実に入手したい場合は、各金融機関に問い合わせてみましょう。
これまで使われてきた旧紙幣も今まで通りに使用できますので、新紙幣への交換は特に必要ありません。紙幣は、「法令に基づく特別な措置」が発令された場合以外、いつ発行された種類であっても無期限で使用することができます。例えば、現在ではなかなか目にする機会のない「聖徳太子」(しょうとくたいし)の肖像がデザインされた10,000円紙幣や、「伊藤博文」(いとうひろぶみ)の1,000円紙幣なども使用できるのです。
【関連リンク】
・ 新しい日本銀行券及び五百円貨幣を発行します
(※財務省のサイトへリンクします)